東日本大震災
ドイツ公共ラジオ放送記者同行記(2011年4月12日&13日)

               報告: 仙台支部長 斉藤彰世(2001420日)

背景

4月11日(月)午後ボランティアグループの仲間の一人より突然電話をうけ、
“東京からドイツ人のラジオ記者がやってくるので同行をお願いできないか”という依頼。
詳しい内容もわからずとりあえず12日と13日は空いているので承諾。

避難所等の案内と勝手に思っていたが、一緒に東京からいらっしゃるIさんのメールを
夜あけると“通訳”という言葉がとびこみびっくり。とても私の力では本格的な通訳は
出来ないがとりあえず詳しい内容はわからないので12日(火)にお会いし話しを伺う事にする。

4月12日(火)

午後ドイツ公共ラジオ放送ARD、東アジア支局のP記者(男性)とIさん(女性)に
仙台市内で会う時間を確認。P記者は日本に3年半在住。オフィスは東京の田園調布。
ARDは日本でいうとNHKのようなもので、日本では最近ラジオを聞いている人数は減っているが、
ドイツでは職場等で結構視聴している方が多いため重要なマスメディアのひとつ。
Iさんは東北大学卒業後、現在東京千代田区でForeign Press Center勤務。

P記者は東京でレンターカーを手配し2人は早朝東京を出発し、彼の運転で仙台に昼過ぎ到着。

12日は打ち合わせだけかと思ったら早速取材をしたいという事で2時過ぎに白色のピカピカの
PRIUSにのり最初若林区役所を訪問。以後P記者がマイクとレコダーを用意しインタビュー、
それをIさんが総て通訳。私は時々写真をとったり、邪魔にならないようにそばでインタビュー
に耳を傾ける。こういう報告を作る予定はなかったので名前やタイトル等特に記録はしませんでした。
メモのようなものとして読んでください。

若林区防災対策課

まず防災対策課の責任者にインタビュー。若林区の地図をみながら現在の状況を説明。震災当時は
20,000人程の避難者がいたが現在は1,200人位に減少。多くは自宅に戻ったり、アパートを
借りたり、親戚の家に身をよせている。

 

現在残っている避難者の多くは津波で家を失ったり、浸水の甚大な被害を受けた方が大半なので
避難生活が長引くことが予想される。仮設住宅が緊急に欲しいが着工がとても遅れている。
その理由は被害が広範囲にわたり甚大。県が責任をもっているが、なかなか市町村まで詳細が
届かない。若林区の詳しい地図を頂く。

30分程滞在後津波で襲われた荒浜地区を視察。海水を大量にあびたたんぼの上にまだ瓦礫や
形をとどめない車等が散乱。半壊した家屋も所所に見える。ここで一番の問題は塩害の被害。
すべての土を入れ替えるのには3年から5年かかるとか。3週間程前フランスの農林大臣が来て
塩害除去のアドバイスをすると言っていたがどうなったのか?

クボタ農耕機器

クボタ農耕機器の看板のある所で農耕機械を修理している職人の一人にインタビュー。

今日営業を再開したばかり。再開にあたっては同じ会社の仲間が助けてくれた。顧客の中には
いつ農業が再開できるかに不安をもっている方もいる。

六卿中学校の避難所

午後5時過ぎ避難所になっている六卿中学校の体育館を訪問。調度夕食時で炊き出しの食事の
いいにおいがしてくる。

リーダー

避難所の入り口で避難者のインタビューの許可を受けるためリーダーの一人に話しを聞く。

キリンビール社員の中年の男性はこれからちょっと出かける用事があるといいながら20分程
インタビューに応じてくれる。

まずこの避難所は同じ町内会の方が多いので、顔見知りが多い。役所等公的機関に頼るのでは
なく被災者の中で自主運営をやっている。今日は広島からお好みやきの支援、新潟から餅つきや
子供や若い方に揚げ物などの提供。明日はアメリカ軍の吹奏楽の演奏やピアノの演奏、ダンスもある。
先日は楽天の星野監督や田淵ヘッドコーチも慰問に訪れた。山形県寒河江からも送迎付き温泉入浴の
提供もあり、今日は50名が参加。

退屈になりがちな避難所での生活に変化をもたせようといろいろな活動がなされている。

昼間は仕事にでている人もいたが、夕方になりぞくぞくと避難所にもどる人が増えてきた。

避難所の中に入れてもらい中年の女性2人に話を聞く。二人共荒浜またはその近くに住んでいた。
一人は昨年新築したばかりなのに甚大な被害を受け、2人の孫も含め8名で住んでいた家族が
今はばらばらなのが悲しい。また戻りたいがかなりお金が必要となる。もう一人の女性はやはり
家が津波で被害。御主人は産まれ育った元の土地に戻りたいと強く希望しているが、本人は戻り
たい気持ともう戻りたくない気持が半々で揺れている。

ボランティアを含めた民間の支援に関しては本当に有難いと思っているが、政府の対応は遅い。
やはりこれからの生活の事を考えると金銭的な支援が緊急に必要。P記者は義援金について質問。
まだ受け取っていない事にたいし後でIさんと私に質問。今義援金配分委員会が設置されその額や
方法を検討している新聞情報を説明。

今日の取材はここ迄で車で我が家まで送ってもらう。

4月13日(水)

9時半過ぎにP記者に我が家近くでピックアップしてもらい利府のジャスコに移動。そこでIさん
と落ち合い石巻を目指す。

石巻の映像は度々マスメディアにも取り上げられていたので、ある程度は想像していたが港が近づく
につれて被害状況がひどくなり目を覆う。昨年5月主人とたまたま版画展を見る為に訪れた同じ街が
全く変わりはてている。途中「仮埋葬」をするために土のうが作られている場所近くを通るとP記者
は興味深々。ご存知のようにあまりにも犠牲になった方が多く火葬が間に合わないので、とりあえず
土葬にし後日火葬をする為に急遽作られた場所。白いテントが痛々しい。同じ日本人としてはちょっと
見るのが辛いが彼は近くに車をとめ写真のシャッターをきってゆく。私はそばで違和感を覚える。

港近くの被害が甚大な地域に入るとほこりも多くなり、ヘドロを含んだ汚水の為あたりに異様な悪臭を
はなちマスク無しではいられない。道路の左手の方に倒壊したり半倒壊の家屋が沢山見えてくる。
住宅地の道路にはまだ汚泥が沢山残りぬかるみも多いがP記者はおかまいなしにどんどん車を住宅街に
進ませる。瓦礫もあるのでパンクするのではとこちらはひやひや。ピカピカのPRIUSはたちまち
埃まみれになる。

NTT社員

途中ケーブルを点検しているNTT社員2人にインタビュー。東京から来ているが改めて実際の目で
見その惨状の酷さに驚いている。住民の方が家に戻った時電話が使えるようにメインのケーブルを点検中。
出来たら3ヶ月程をめどにメインのケーブルを修理したい。

Kさん

家の片づけをしている一人の男性にインタビュー。今回の取材で一番印象深かった方。頭には奥様の遺品の
手編みの帽子を被った彼は3月末で40年近く勤務した貨物船の仕事を退職。今は近くの借りたアパートから
通い親戚と一緒に後かたづけをしている。公的な援助をあてにせず全部自分でやるという独立独歩の姿勢。
震災当時彼は仕事場にいたが、奥さんは家で亡くなった。一階は全部津波で海水が入ったが柱はしっかり
残ったので住む予定。奥様を亡くし、家も大被害を受けたこんな悲惨な状況でも何もうらまず、たんたんと
処理を行っている。帰りぎわには「どうぞ気をつけて下さい」とこちらを気使ってくれてかえって恐縮した。

石巻公民館

次に訪れたのは被災者が身を寄せている石巻公民館。先日TVで石原軍団が派手に炊き出しをやった映像を
ご覧になった方もいると思いますが、すぐその横。まず避難所の責任者に話を聞く。

60はとっくに超えていると思われる彼はもともとはこの公民館の責任者。子供から大人までの教育や
この公民館の管理担当。震災以後今迄とは全く違った避難所の責任者の仕事をしている。震災直後は
“とりあえず命が助かって良かった。一日一食だけでもたべられればいい”と思っていたが、日がたつに
つれ一人、一人必要としているものが違ってきている。疲れもでる頃なのでこれからが大変。

子供

避難所の中に入らせて頂いて、小学校と中学校の3,4名子供と一人のお母さんにインタビュー。
私は専ら写真撮影に専念。14歳の中学生(女子)はここにボランティアに来ている。家は一階まで
水が入ったが、家族は皆無事。でも可愛がっていたチワワ(3才)を自分の判断ミスでなくした事を
後悔している。“将来は何になりたい?”と私が尋ねたら“両親が家にこれから沢山お金を使うので、
高校を卒業したらすぐ公務員になりしっかり稼ぎたい。”子供心にも将来の経済苦を察しているようで
心が痛むが、この不条理を乗り越えて強い大人になってねと心で祈る。

小学校の男の子(4年生くらい)はつとめて明るくしているのか、ピースサインで写真の応じてくれる。

石巻市役所

さくら野の中に移転した石巻市役所を目指す。途中繁華街を通るが両脇は瓦礫と建物中から出された
汚泥の山。でもこれでもかなり撤去されたのだろう。洋服店、スポーツショップ、飲み屋のサイン、
3月11日2時46分までは多くの人で賑わい活気をていしていた場所が今は作業服を着た作業員や
長靴をはいたボランティアが目につく。

仮埋葬受付

まず2階の仮埋葬受付で取材を申し込む。担当者がたんたんと説明していたが私はとてもそばで
話を聞けないので写真を撮っただけ。横で書類を記入している家族がいる。

環境課

今の復旧の状況を環境課の担当者に質問。やっと道路の瓦礫を動かし道を通れるようにした段階。
河北新聞の瓦礫の量、宮城県だけで23年分という記事を見せながらP記者に
説明。

災害対策課も訪れたかったが、3階は社会福祉協議会が援助する「特別緊急融資」の申し込みで人が
溢れている。市役所の取材はここで終了。

車に戻った時点で午後4時半頃。今日の取材はこれで終わり仙台に戻るのかと思ったら、P記者は
南三陸町を訪れたいけどいいですかと同意を求める。折角東京から遠路来て取材に来ているのだから、
どうぞどうぞ行って下さいと同意。

南三陸町

一般道を通り南三陸町をめざしたが、途中行き止まり。知り合いのIさんの御主人が勤務されている
石巻の日赤病院が左手に見える。ここは石巻の病院の拠点とし何度もTV等で紹介された場所。

 

Uターンし三陸道に戻り南三陸町をひたすら目指す。車中私は石巻と南三陸町の距離感があまり
はっきりしていなかったのでこれは遅くなるなとちょっと不安を覚える。三陸道をおりた時は
5時半過ぎになっていた。一般道におりると対向車は自衛隊の“救援物資”とかかれた駐屯地に
戻る緑色の大型車ばかり。ここで白のPRIUSはういている。

10分程東北ではどこにでも見られるような、のどかな田舎の風景を走ると目の前に別世界が
突然現われる。なぎ倒された材木や家屋の残骸。車をとめて3名各々写真を撮るがこのあたりは
まだあまり手がついてない様子。道路の横に泥にまみれたアルバムがあり可愛い少女の顔が写っている。
彼女は無事だったのか?ここはまだまだ海には遠いはず。でもどうしてこんな所まで津波がきたのか
信じられない。一部杉林が固まりで残っている部分もあれば、半分位なくなっている部分もある。
ちょっと目を上にむけると一見被害のなさそうな一軒屋がいくつか残っている。その落差の激しいこと。

5,6分過ごした後また車を進めると、TVや新聞で何度もとりあがられた防災センターの茶色の
鉄骨が右手に見えてきた。その前に緑の車と中年の女性、ブルーの作業着を着た男性が視界に入る。
車をとめP記者がその男性にインタビュー。

この中年の男性はキャンピングカーで寝泊りしながら、ボランティアをしている。4時で仕事が
終わった後は瓦礫だけでなく人が生きた証として、人が作ったものを写真撮影している。

この防災センターで最後まで避難のアナウンサーをした未希さんの話はよく知られているが、
先程いた夫人はこの防災センター長の奥様。報道では未希さんが最後までアナウンスをしていた
事になっていたが実際はこのセンター長が最後の一声を行った。

彼は職員を誘導し防災センターの屋上に上がった。屋上でしゃがんでいたが津波に襲われ、
報道されているように鉄塔につかまっていた佐藤町長以下4名程のみ助かった。

最近この御主人の車が見つかった。今日は亡くなった御主人の誕生日だったので、車のそばに
御主人の好きだったお酒とおつまみ、生涯で一度だけもらったラブレターをおいてきたという話。
今回の震災では数々のエピソードがあり今後も語りつがれる話が沢山でてくるかもしれないが、
この話もそのひとつになるだろう。

防災センターを後にどんどん海の近くに車を進め海岸あたりに車を止める。目の前にこれも新聞や
雑誌で目にした転覆した黒い貨物列車の無残な姿。線路はどこにいったのか近くに跡形もない。
ここに鉄道が通っていた事はとうてい信じられない。

あたりはだんだん薄暗くなってくる。この調子だと帰宅はかなり遅くなると思い、P記者とIさんが
写真を撮影している合間をぬって主人に電話をかけ遅くなるけど心配しないように伝える。

ここ南三陸町の海岸線で見た景色は今迄で最も衝撃的だった。一部の鉄筋のアパートを除いて
ほとんど総ての建物が破壊され、わびしく打ち捨てられている。あたりもだんだん暗くなり
今迄少し見えていた車のライトもひとつ、ひとつ消えていく。荒涼、寂寞という表現を何度か
目にした事があるがこれはまさにそんな風景。Iさんと2人で”言葉が出ない。表現する言葉がない
“と短く会話をかわすだけ。それでも訪れる機会のない方に少しでも伝えたいので何枚か写真を撮る。

すっかり明かりが消えた中左手奥のちょっと高くなった所に多くの方が避難しTVで何度も見た
ベイサイドアリーナの光が見える。わずかではあるが高台に残っている家もある。

海辺をわたる風の音以外聞こえない静寂に寒気を感じる。

 

総ての取材が終わり帰宅の車にのったのは7時過ぎ。三陸道をひたすら仙台にむけ戻り、
松島・塩釜インターでIさんを下ろす。2日間びっちり通訳をされたIさんはさぞお疲れになった事と
思います。
帰宅したのは9時頃。アパートの前でP記者から同行したお礼を鄭重に言われたけど、
たいしたお役にたてずなんだか心苦しい。

明日(14日)は朝レポートをまとめ東京へ戻る予定とか。彼のレポートを聴くドイツ人が
日本の現状を少しでも知ってくれたら嬉しい。
家に戻りひと段落した所でIさんにメールを送る。
後日頂いたメールによると14日(木)もP記者と同行し福島での取材に付き合い東京に戻られたそうだ。
本当にお疲れ様でした!

後記

一つの電話から私の人生で最初で多分最後になる貴重な体験をさせて頂きました。事件や事故があった場合
“現場に行け”という言葉があります。どんな最新鋭の機器を使った映像や写真を見てもやはり自分の
目の前にひろがる光景にはかないません。

こういう機会を与えて下さった方への感謝の気持も含め記録として残しておきたいと思いこのメモを
作りました。被災地に行く機会のない方にとってこの拙いメモが少しでも震災の様子を理解する手助けに
なると幸いです。私も日常生活におわれ被災された方々の事をだんだん自分にものとして思えない時が
やってくると思います。その時はまたこのメモを読み返し、目にやきついた光景を絶対に忘れずに伝えて
いきたいと思っています。