母校校歌をおたのしみください


注)Youtube動画を参照します
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制定当時の珍しい楽譜(「花橘」13号より)



    

校歌 由来記
                                        57期 伊藤美栄子(武井)

                                                 

  百周年記念式典では、卒業生・在校生合同によるオーケストラ演奏と混声合唱の校歌で始まり、歌声は会場一杯高らかに広がり感動を呼んだ。

その我が母校校歌の作られた経緯、そして長い歴史の中にあった事実を各方面の記述を元に集約してみた。

【校歌制定】

 1916(大正5年)11月3日立太子礼奉賀式の際、記念行事の1つとして校歌制定が決まり、佐佐木信綱作詞 幸田 延作曲の校歌が誕生した。

従って開校以来15年の間校歌というものは無く、式典の際には「開校式の歌」が代わりに歌われていた。

【作詞者・作曲者のプロフィール】
作詞者 佐佐木信綱(18721963)
歌人・国学者・文学博士
1937年、幸田露伴、横山大観らと共に第1回文化勲章受賞
「万葉集の研究」「日本歌楽体系」等著書多数
唱歌「夏は来ぬ」の作詞者
制定当時の第二代相澤英次郎校長より美的思想養成に関しての注文を受けこのような優美な詞が出来た。
作曲者 幸田 (18701946)
東京音楽学校(後の東京芸大)教授
文学者幸田露伴等、近代日本の各分野で名を成した幸田家の8人兄妹の長女であり、幸田 文は姪にあたる。
 日本音楽界初の官費留学生としてウイーン音楽院に学び、西洋クラシック音楽のすべてをわが国にもたらし、滝廉太郎、三浦 環、久野 久など優秀な門下生を輩出している。              (中村紘子著「ピアニストという蛮族がいる」に詳しい) 
1937年、佐佐木信綱、幸田 延、共に第1回芸術院会員となっている。

 こうした当時最高の作詞者・作曲者によって校歌が出来たことは大変に貴重なことであり、この実現には本校第2期生であり東京音楽学校を卒業後制定当時音楽の教師として母校に勤務されていた末木美衛先生のご縁によるものであったという。

【曲の特徴】
・曲の形式
 1番の曲はおごそかに立派に、そして2番は明るく勇ましくとそれぞれの歌詞の心を充分に表した曲になっている。これは“通作歌曲”といわれ、詞の各節に対して新しい異なった旋律がつけられてゆくという形式がとられている。
・「荒城の月」との関連性
滝廉太郎作曲 「荒城の月」と冒頭2小節がそっくりなのは誰もが感じる点だが、彼は帰朝後の幸田 延に感銘をうけ作曲を学んだ。東京音楽学校から出版された「中学唱歌」の中の1曲にこの曲が入れられている。「荒城の月」が我が校創立の年に作られたことから、記念の意味で校歌にこのフレーズを入れた可能性もあり欧州では良くあることと言われている。
ちなみに滝廉太郎が24歳で亡くなる前年に作曲したピアノ曲「憾み」は、逆に幸田 延の独奏曲を模したものであるといわれている。
(先輩セミナー 62期 瀧井敬子氏講演より)
音楽史上の文化財
幸田 延の作品は器楽による大曲に限られ、この校歌は唯一の歌曲であり、まさに“音楽史上の文化財”と言えるものであろう。

 

            制定当時の珍しい楽譜    (「花橘」13号より)

【戦後 米占領軍の統制下、我が校校歌が生き残れた幸運

 戦時中の軍国主義教育を排し、民主主義による新教育を徹底させるためマックマナス(当時の神奈川軍政部教育担当官)旋風の吹き荒れた米軍政下、『天皇の威光恩寵によって栄える世に 教育勅語を手本として毎日励む』などという校歌が到底厳しい検閲に通るはずはなく、歌詞の改訂が必要となる。

 昭和25年 創立50周年を機に、当時音楽科教師であった佐藤一夫先生と国語科の高木東一先生が佐佐木信綱邸を訪れ、歌詞の改訂を依頼し次の様に変わる。

(改訂前) (改訂後)
1. 1.
をしへの道の みことのり 学びの道に いそしむは
教育勅語を示す)
われらが日々の をしへなり 我等が日々の つとめなり
みそらに匂ふ 富士の峰 み空に匂ふ 富士の嶺は
われらが胸の かがみなり 我らが胸の かがみなり
2. 2.
百船ちふね つどひ寄る 百船千船 つどひよる
みなとの榮え きはみなし 港の栄え きはみなし
榮ゆる御代の みめぐみに 栄ゆる春を 迎へつつ
御くにの花と さきいで舞 み国の花と 咲き出でむ
 (花橘第13号より)  (百周年記念誌より)

 

 この様に変えた以外は殆どそのまま継承されたが、これだけの改訂でこの校歌が生き残れたことは実に異例のことであり、奇跡とさえ言えるのではないだろうか。

【共学後 新校歌制定 の動き】

1950年(昭和25年) 男子生徒が入学すると 
  ・スポーツ応援の際 盛り上がらない 
  ・キーが高いし変調もありむずかしくて歌いにくい
  ・「み国の花と…」と歌詞が男子むきでない等々改訂の要望が高まる。

 1952年(昭和27年)学校新聞に特集が組まれ、新聞部の生徒を中心に学校側と交渉が繰り返された。しかし女子上級生の猛反対があり、又歌詞変更の直後だったことや音楽担当教師の説得もあって、実現には至らなかった。

1957年(昭和32年)男子生徒の為に“第二校歌”を作ることを決め、作詞は生徒から公募という条件で、作曲を芥川也寸志氏に依頼することとしたが、応募は無くその後立ち消えとなった。

この様に何回もの変遷を乗り越えて今日に歌い継がれている我が校校歌について、元音楽科教師である佐藤一夫先生は次のような賛辞を送っている。

『この校歌の短い中に殆どデカダンスともいえる多数の技法を駆使してしかも気品を失わず、形式(フォルム)を崩さず、見事に小宇宙を構築している事に驚かされます。』   

 

<考資料>
百周年記念誌(真澄会編) 2期 末木美衛「校歌の制定」
50期 馬場 昇「校歌をどう思う」
266頁「校歌の改訂」
(学校編) 旧職員  佐藤一夫「終戦直後の学校と校歌の改訂」
55頁「校歌制定」
135頁「校歌改正問題」